【城跡】204人が打ち取られて滅亡・平瀬城跡(前編)

ヤミ闇通り探検隊

”クレイジーランナー”とはいったい何者なのか?(自己紹介)

【城跡】204人が打ち取られて滅亡・平瀬城跡(前編)

武田信玄にボッコボコにされた、平瀬城に行ってみよう!
ヤミ闇通り探検隊、第2弾でございまーす。
今回は、前回と打って変わって城跡に行ってみようと思います。
実際に行くときはYouTube動画を撮影します。
動画をアップした後に、この記事の後編も書きますので、そちらもお楽しみに!
お品書き
そもそも平瀬城って、誰の城ですねん!
城主は平瀬義兼ですね。
武田信玄が攻めてきたので対抗しますが、部下の兵士204人がブッコロバイバイな結果になってしまい自刃しております。
わずか204人の兵士で武田軍に対抗したのは、なんていうか…
漢(オトコ)ですねぇ!
おそらく命を落とすこと、自らの家系が途切れることは判っていたはず。
結果的に、早い段階で戦国時代から姿を消すことになった平瀬氏ですが、その生き様はまさに、戦国武将らしいと言えるでしょう。
①特殊な構造の、山城らしい!
平瀬城は山城です。
ただの山城ではなく、ちょっと特殊な形状をしているとかで、研究者の間では知られたお城であるとか。
その特徴とは、
  1. 他の山城と比較して、本城の主郭部分がずば抜けて広い
  2. 尾根続きに築かれている連続竪堀(たてぼり)が大規模かつ複雑

この2点が挙げられるようです。

言葉で言われてもよくわからねぇ…
この辺りは、私が自分で平瀬城に赴いて現地調査してみることにしましょう。
②いらないから、廃城になっちゃった…
文献により多少前後しますが、平瀬城が落城したのは1552年くらいです。
その後、武田軍の手に落ち、原虎胤(はら・とらたね)が平瀬城の守りにつくことになります。
そのたった1年後の1553年。
武田家が筑摩郡(だいたい松本市から安曇野市あたり)を平定したため、平瀬城はいらなくなっちゃいました。
そのため、武田家のものになってから僅か1年で廃城になってしまっております。
平瀬城は、山を背負ったような位置にあります。
交通の要所でもないし、活用する理由もなかったのでしょうね。
③野生動物が出るかもしれない(迫真)
これはちょっと重要な話なのですが…
熊が出るっぽいです。(迫真)
平瀬城ふもとに、張り紙がありましたから。
ね?
というのも、私はYouTubeの動画シリーズ『LSDな休日』で、かつて松本市を60㎞くらい走っています。
そのとき、平瀬城の存在を知ったんですよね。
時間がなかったので平瀬城跡までは行きませんでしたが、『いつかいってみたいなぁ』くらいには思っていました。
熊が出るかも、ついでに検証するとしましょう。
熊除けの鈴と、熊スプレーは忘れないように…。
【突貫】安全に到達できるのか、私が行ってみましょう。
他にも、『道がぬかるんでいるので、防水対策をした方がいい』という意見もありました。
とか、そこらへんも含めて…
平瀬城は果たして、安全に到達できるのか?
を、現地に突貫して隊長自ら体感したいと思います!
いくぞ!ヤミ闇通り探検隊!!
【オマケ】他にもある、28人ブッコロスポット
平瀬城の近くに『八王子神社』というお社があって気になったのですが、その由緒は調べてもよくわかりませんでした。
平瀬城の近くには他に…
熊倉の渡し跡
という史跡がありますね。
かつて江戸時代の松本藩では、この犀川を渡る船は大変貴重な交通の要所であったとのことです。
それだけならいいのですが、1686年に貞享騒動(じょうきょうそうどう)という…
年貢高すぎるからどうにかしろコラ!
という反乱が起きていますね。百姓一揆ですわ!
なんと、松本城に1万人のお百姓さんが集結したらしいです。
ホンマかいな。
なんしろ、このころ税が1.4倍にされたらしいです。
それは怒るのもムリないっていうか、おそらく生活に困窮したんでしょうね。
一揆を扇動した多田加助とその仲間は28人が極刑に処されました。
一揆の後、税はある程度引き下げられたそうなので、加助は自らの命を賭して、仲間たちを守った英雄と言えるでしょう。
安曇野市には貞享義民記念館があり、加助の大活躍がシアターで見れるそうです。
私も熊倉の渡し跡に行って、数々の歴史を見てきた犀川に足をつけてみようかな。

平瀬城跡をかすめた、松本市を走った時の動画ですわ!

松本市を全力で楽しむ方法が満載です。

興味がある人はポチってもいいかもしれません。本当です。

コメント

タイトルとURLをコピーしました